第10話 婚約者との家

白洛因は鼻を鳴らした。
「あんな美味い餃子食べたことねぇよ。」

顧海の深く下げられた目元は、近くの手元を見つめている。表情は動揺する事無く、いつも眺めていた顔がより大人びている。変わってしまったのは口元だけで、八年前は自慢げに弧を描いていた口元から若さは色あせ、淡い赤は権力を持つ男の口元へと成長していた。

顧海は八年前に味わっていたあの甘さを味わいたくて仕方なかった。

顧海の鼻から煙が広がり、周りが重くなったので、白洛因は顧海を急かすように反射的に頭を下げた。

「帰る。」

白洛因が足を上げると、顧海が彼の腕を掴み、口元に笑みをあふらせた。
「今日は俺が飯奢ってやるよ。」

「いらない。」

白洛因は今にも縋ってしまいたくなるほど暖かい顧海の手を押し退けた。
「もう仕事じゃないんだ。そんなのする必要ないだろ。」

「兄弟なんだからそれぐらいしたっていいだろ?」

白洛因はまだ首を縦に振らなかった。
「今日は……」

「俺と顔を合わせるのがそんなに嫌か?」
顧海は白洛因の拒否を遮った。

白洛因の顔が突然笑顔に変わり、冗談半分、本気半分で顧海に尋ねた。
「お前の事を婚約者が待ってるだろ?」

「だからなんだよ。」

顧海の目が細められると、白洛因の心は沈んだ。

「別にいいならいい。行くぞ。」



顧海の新しい家は西城区にあり、百平方メートル以上の土地だが、他の家に比べれば小さく、しかし一人暮らしには十分な広さだった。一番広いのはジムで、それ以外は寝室のみだった。顧海は自宅に白洛因を招き、案の定、顧海の部屋は白洛因の部屋よりも格段に綺麗だった。白洛因は無意識のうちにベッドに目を向けると、布団と枕のセットが二つあった。

「いつ結婚するんだ?」

白洛因が尋ねていくら待っても返事がなく、振り返ると、顧海の姿が無いことに気がついた。

作業室に戻ると、顧海のパソコンは二人が海辺で撮った写真を写している。白洛因は驚き、何かに捕まったかのようにその場から動けず、この時感じた気持ちは言葉には表せなかった。白洛因はマウスを手に取って壁紙を変えようとしたが、デスクトップもその写真であることが分かった。

白洛因はその場に立ち尽くし、壁紙を全て変な写真に変えておいた。

一方、顧海はキッチンで料理している。

白洛因はキッチンのドアに寄りかかり、タバコを咥えて忙しそうに動き回る顧海の姿を静かに眺めていた。

未だ冷たそうに見えるその外見の中には、誰よりも優しく繊細な心が隠されているのを白洛因は知っている。時々危ない時もあるが、時々簡単に諭されるその心を。嫌いな人には無関心かもしれないが、愛する人には一心に愛を注ぐことが出来る。そんな見た目もよく、権力もあり、愛することも惜しまない男が……数多の女性が完璧な王子様の夢を見ていることだろう。


こいつがい無くなったら、俺はひとりぼっちだ。


顧海は野菜を鍋に入れると、動きに伴ってガチャガチャと音が鳴った。

白洛因は突然口を開いた。
「お前は完璧だな。」

顧海は白洛因の方を向いて、揚げ物をしながら尋ねた。
「なんて言ったんだ?」

白洛因はゆっくりと煙を吐き出して、顧海に笑顔を向けた。
「この間来た女性社員が、私達の上司は穏やかで、才能があって美しく、正義を持っていて、感情的にもならず、責任感が強くて……って褒めてたよ。稼げて家事もできる男だと。」

顧海が故意に尋ねた。
「誘ってんのか?」

白洛因は何も言わず振り返って去った。



テーブルの上にはいくつかの料理と、顧海が自ら包んだ二種類の餃子が置かれていた。

白洛因は料理でいっぱいになっているテーブルを見て、複雑な気持ちになったが、顧海の言葉を聞いて一気に冷めた。

「同情して作ってやったんだ。沢山食えよ!」

白洛因の上っていた血は、この一言で冷たく凍った。

蒸し餃子を見て、白洛因はズッキーニと卵の餃子だと喜んだが、食べてみると茴香餡の餃子だと分かった。白洛因は少しがっかりしたが、それを表に出すことなく飲み込んだ。

顧海は別の皿から別の餃子を白洛因の前へ持っていき、白洛因がよく見てみると、ズッキーニと卵の餃子だと分かり目に喜びが溢れた。我慢できず食べると、中にはエビも入っていて、七、八年振りにこの餃子を食べた。

白洛因は食べ終わると、もうひとつ食べたくなって手を伸ばした。しかし、もう少しで届くという所で手が止まった。

これを取っちゃダメじゃないか!?

茴香餡の餃子は嫌いだが、ここでズッキーニと卵の餃子を取ったら、嫌いだったことがバレてしまう!

この野郎、食事中にも罠をかけやがって!

白洛因は思いついた。何がなんでもズッキーニと卵の餃子は食べたいが、茴香餡の餃子も食べなければならない。それなら挟んで食べればいい。茴香餡の餃子をズッキーニと卵の餃子に挟んで食べた。

正直、顧海は白洛因が最初に二種類の餃子を食べている時点で、どちらが好きなのかは明白だった。しかし今こうして白洛因が食べているのを見て、自分がやっていることが情けなく感じ、心が痛かった。特に、白洛因が無理やり餃子を口に詰め込んでいる姿が辛く、なんとも言えない気持ちになった。白洛因が食べるべきなのは、茴香餡の餃子ではなく、彼が好きなズッキーニと卵の餃子だ。

白洛因が茴香餡の餃子に箸を伸ばそうとすると、突然皿が奪われたのが分かった。

「もういい、そんなことするな。好きな方を食え!」

顧海は奪った皿から、茴香餡の餃子を全て食べてしまった。

こうして一緒に食べているだけで、多くの感情が混乱し、どうしようも無くなったので、白洛因はひたすらにテーブルの料理を食べた。しかし何を食べたのかは思い出せず、ただ、いつも通り美味しかったことだけを覚えていた。



夕食後、顧海が皿洗いをしていると、白洛因はリビングで彼を待っていた。顧海が皿洗いを終えてリビングに戻った時、白洛因はソファに寄りかかって眠ってしまっていた。

顧海は静かに白洛因の側まで歩き、彼を見つめて、突然まるで自分たちは八年前のままのような気がしていた。ここは八年前の家で、ただロールプレイングの為に不慣れな服を着ていて、ただ遊んでいるだけ。ただいつも一緒にいるだけ。

寮で眠っている時、白洛因はいつも警戒していた。しかしここにいると、部屋が暖かいからか、何故かは分からないが安心して深く眠れていたので、誰かに触れられても目を覚まさなかった。

顧海はしゃがみ、白洛因の手に優しく触れた。

その手はもはや記憶にある手ではなく、綺麗だった手は、所々傷があり、二本の指の爪は未だ捻れたままだ。しかし顧海は、白洛因が自分を助ける為に生じた怪我だとは知らなかった。

当然、顧海の額や背中の傷に比べれば、こんな傷はさ際なことだ。

しかし、顧海にとってはそんなささいな傷でも感情が揺さぶられるようだった。

突然電話が鳴り、深い眠りに落ちていた白洛因が目覚めた。

白洛因が目を開けると、顧海の顔が近くにあり、彼の目が一瞬凍ったが、すぐに顧海の顔から逃げて電話に出た。

「はい、はい。わかりました。直ぐに向かいます。」

顧海はそう遠くに居ない白洛因を見つめた。
「緊急事態か?」

白洛因は靴を履きながら振り返ることも無く答えた。
「あぁ、緊急事態だ。」

話しながら靴を履き終えて、白洛因は別れの挨拶も無く去って行った。去るまでは早く、僅か三十秒で白洛因の姿は夜の闇に消えた。前まで顧海が白洛因を起こしても、目を開いてから起き上がるまで少なくとも十分はかかっていた。しかし、今の白洛因は起き上がるのに十秒もかかっていない。
どんな訓練がこんなにも生活習慣を徹底的に変えたんだ?

八年で、誰がお前のことを変えたんだ?



白洛因が軍事病院に着いた時、刘冲は危険な状態だった。

「何があったんだ?」

白洛因が尋ねると、刘冲と共に訓練を受けていた兵士が赤い目で答えた。
「今日の午後、訓練をしている時に、彼の飛行機だけ状況がおかしく、飛び降りなければならなかったのですが、十分な高さがなく山の中の岩にぶつかったんです。幸い地元の方が見つけて下さり警察に電話してくれたんです。そうじゃなければこいつは今頃死んでましたよ……」

白洛因の顔は未だ深刻そうだ。
「状況は?」

「全身の至る所で骨折をしていて、顎も壊れています。幸いなことに脳は損傷を受けていません。しかし出血が酷く、体が弱っているので未だ昏睡状態です。隊長、中に入って見ますか?」

白洛因は軽く答えた。
「いや、いい。良くなったらまた会いに来る。」

そう言うと、白洛因は振り返って、重たい感情を抱えながら病院を後にした。誰にも言っていないが、白洛因は未だに血が怖かった。病院の廊下に立ち、緊急治療室の点滅する光を見ているだけで、体から冷や汗が流れた。